シードンどうぶつ記

アタマは老年! ココロは中年! キブンは少年!(SSブログから引っ越して来ました)

欲望電車の裏側

《リード》
 「欲望という名の電車に乗って、墓場と書いた電車に乗り換えて、極楽で降りる」―—あまりに有名なフレーズである。テネシー・ウィリアムズの名作「欲望という名の電車」。東京グローブ座で公演中の「欲望という名の電車アトリエ・ダンカン 鈴木勝秀:演出 07.11)を観てきた。(ネタバレあり)
 

 
《本文》
 アメリカ人と日本人では人生の捉え方や生きるスタイルがずいぶん異なる。シェイクスピアでもそうだが、日本で観る翻訳物の芝居は「?」のことが多い。しかもイギリスとアメリカを比較してみると、まだイギリスの方が日本人の感覚となじむところが多いように思う。つまり、芝居の世界ではアメリカはあまりに遠い。ましてテネシー・ウィリアムズである。この特異な作家の世界はアメリカの底辺を描いてその暗い闇の中に輝く蝋燭のような趣がある。その陰影のコントラストの激しい世界は、曖昧で微妙な美を感受することが得意な日本人にとってはアクが強過ぎて入って行きにくい。本として読むならともかく日本人の姿で見せられ、日本語で聞かされるとなると敷居は背丈ほども高く感じられる。

 原作にほぼ忠実な展開(レシピ)の中、素材と味付けが芝居の成否を決めることになる。

 まずは役者陣(素材)。これでほぼ方向性は決まる。私は直前まで篠井英介女形でブランチを演じることを知らなかった(笑)のだが、これは一長一短だった。原作の彫りの深さを減じるやり方である。日本で上演するにはこういうやり方もあろう。どのみち原作の再現は無理なので、ソフトに観やすい方向に振るためには有効な手段と思えるからだ。女性が演じる場合に比して「これは芝居だよ」というサインが常に強く発せられることになるので、観客が過剰にのめり込まず突き放したところから観劇できる。微妙な距離感が生まれるわけだ。
 北村有起哉のスタンリー。雰囲気はよかった。全体的な造型としては納得できた。今回の他の役者陣とのバランスでいえばそうなのだが、一番「アメリカン」なスタンリーを日本人がどう演じればよいかに納得いく解答が得られたかというとやはり「?」だ。
 ミッチ伊達暁、ステラ小島聖は日本的な善良さが出ていて好感が持てたが、この芝居では疑問。もっと毒が出ないとテネシー・ウィリアムズの世界ではなくなってしまう。
 本来バラバラな素材をまとめあげるのが味付けの工夫だろうが、この芝居では四人がバラバラなままだった。

 私が演出なら(笑)……イヤ演出はできないので、「野田彰演出、大竹しのぶブランチ」で観てみたい。(2002年に蜷川演出、大竹ブランチで上演されたようだが、私は残念ながら観ていない。それに私は蜷川氏を評価していない。) だが、スタンリー、ミッチ、ステラに誰を配するか難しい。私にはわからない。

 今回の脚本では「死の反対が欲望」(第9場末尾の有名なセリフの部分)だったが、昔の新潮文庫(66刊 田島・山下訳)では「死と裏合わせになっているものは、欲望」となっていて、私にはこの方がしっくり来る。鳴海四郎(「テネシー・ウィリアムズ戯曲選集1」早川書房 77)小田島雄志新潮文庫 88)の訳ではいずれも今回の脚本のようになっている。(今回の脚本は小田島恒志(慧文社 05)の手になるもののようだ)
 しかも鳴海氏は「あとがき」で「ブランチが『死の反対は欲望』と言って、死神の意識から逃れようとして欲望に身をまかせたように、作者自身も死の恐怖から逃れるために、しゃにむに執筆活動に自分をかりたてた。」と記している。(前掲書)
 原文は「The opposite is desire.」(その前のセリフの冒頭に「Death」は出ている)なので確かに「死の反対は欲望」が素直な訳なのかもしれない。……だが、このセリフの直後には飢えたように欲望に身を任せる陸軍の兵士たちのことが取り上げられている。そして遡れば、ブランチの最初の結婚相手の死は欲望と裏合わせであったことが思い起こされよう。
 このセリフの解釈として、「死の反対は欲望」と死から逃避するという鳴海氏の捉え方は形式論理的には正しいかもしれないが、一人の破滅した女性のリアルな意識を語ったことばとしては不足に感じる。むしろ「死を強く意識すればするほど欲望が募る」というブランチの自己省察、認識を語っていると見るべきで、田島氏の訳のように「死と裏合わせの欲望」の方がそのニュアンスを伝えている点で優れていると私は思うのだ。

 妹ステラは「姉は本来素直でデリケートでやさしい人だった。それを周りの野蛮な連中がイジメぬいたからあんな風になってしまった」という意味のことを語っていた。(第8場)
 だとするとこれは「ガラスの動物園」のローラそのものである。この戯曲はローラのその後を書いたものと受けとめることもできるわけだ。
 「欲望という名の電車」は、やさしくデリケートな女性が一人で生き抜いて行かねばならない時どういうことになるかという悲劇をアメリカの激動の時代を背景にクールにしかも熱く、愛情をもって描いて見事である。
 ブランチを軽蔑しながらも抱こうとするミッチ、そしてスタンリー。哀しい人間の性さがが我が事として心に突き刺さる。そしてミッチを拒み、スタンリーに屈するのが女性なのである。

 そういう人間を抉る主題は今回の芝居からも十分伝わってきた。その点では観てよかった。
 テネシー・ウィリアムズにカンパイ!